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聖アガタおとめ殉教者
     St. Agatha V. et M.    記念日 2月6日 (2月5日)



 シチリア島の火山エトナの山麓にあるカタニア市は、聖女アガタの生まれ故郷と言われ、同火山に爆発噴火の兆しがあると、その市民は同聖女に保護を願うのを常としているが、そればかりでなくアガタは世界一般にも火災防護の聖女と仰がれている。かのように彼女がいつも火に関連して考えられるのは何故故かと言えば、それはその伝記をひもとけば知られるのである。

 彼女は3世紀の半ば、デチオ皇帝がローマ帝国を治めていた頃の人で、天成の美貌は花をもあざむくばかり、その上貴族の家柄で教養も高く、優雅にして淑やかな少女であったから、早くより人の注目の的になっていたが、シチリア島の知事クインチアノも彼女に想いをかけ、自分の権力を笠に着て妾に召し出そうとした。しかし敬虔篤信のキリスト信者であるアガタがそういう言葉に従うはずがない。少しも取り合わず頭からきっぱりと拒絶してしまったのである。
 案に相違した知事が、何とかして望みを遂げる途はないものかと思案にくれている矢先、あたかもよし皇帝から信者を弾圧せよとの布告が出たので、彼はこれ幸いとアガタを拘引させ、信仰を棄てて自分の言葉に従えと、或いは威嚇し或いはすかし、手を換え品を換えて彼女を試みたが、意志の堅固な聖女はどうしても承知しない。で、知事は破廉恥にも彼女を堕落に導いて自分の心に従わせようと考え、アガタを汚らわしい魔窟に送り、そこの女達に言い含めて三十日の間さまざまに誘惑させた。アガタは場所柄とてしばしば淫らな言葉を耳にし、厭うべき有様を目にせざるを得なかったが、白百合の如き貞潔の徳をあくまでも守り通し、周囲の執拗な誘惑に対して一歩も譲らなかった。されば魔窟の人々も遂に手を焼き、彼女を知事の許に送り返し「この女を陥れるのは大理石を溶かすより難しいことでございます」と答えたという。
 知事は又も思惑が外れて忌々しさに堪えず、今度は手下に命じていろいろの拷問にかけた上、真っ赤に焼いた鉄棒を聖女の身体に押しつけ、果ては残酷にもその乳房まで切り落とさせた。それでもアガタは終始黙ってよく忍耐し、どこまでも卑劣な相手に屈服しなかったが、ただこの最後の責め苦を受けた時にはさすがに苦痛がこたえたものか、はじめて口を開いて「あなたも子供の時分にはお母様のお乳をお飲みになったでしょうに、か弱い女の乳房を切り取るとはあまりのなされ方ではありませんか」と知事をたしなめたという事である。

 さて聖女の堅忍に責めあぐんだ知事は、やむなくこれを牢屋へ下げさせたが、飲食物を与えることも、傷に包帯を施す事も、許さなかった。数々の拷問に弱り果て出血もまた甚だしかったアガタは、間もなく息を引き取るかと思われたが、彼女は一切の苦痛を天主に献げ、熱心に祈った「主イエズス・キリスト、私が何を望んでいるかよくご存じです。私のすべてを献げます。どうぞ私をあなたのものにしてください。」すると聖ペトロが現れて彼女を慰め励まし、その傷までも綺麗に癒してくれたと伝えられている。
 再びアガタを白州に召し出した知事クインチアノは、あれほど傷つけた聖女の身体が、その痕跡もなく癒えているのに驚き、これはおおかた魔法の力によったのであろうと思い、なおも聖女を苦しめるため、地上に燃えさかる炭火とガラスのかけらとを撒きしかせ、そこへ彼女を裸にして押し倒し、引きずり廻したからたまらない。アガタは血まみれになり、息も絶え絶えになった。そして彼女は再び牢獄へ運ばれ、祈っているうちに亡くなった。その死はアガタを苦痛から解放し、主イエズスの御腕に彼女を連れて行ったに違いない。これは251年の事であった。

 聖女アガタの輝かしい殉教は、たちまち人々の語りぐさとなり、また彼女の代願に依って数々の奇蹟も起こった。聖女ルチアもその母の病気を治すために、アガタの墓に詣でて熱心にその取り次ぎを願ったという話である。聖会は彼女を2月5日に記念しなお聖女ルチア、アグネス等と共に毎日のミサ典文中にも彼女の名を誦える事にしている。


教訓

 アガタはか弱い婦人の身でありながら、口にするのも恐ろしいような数多くの責め苦をよく耐え忍んだ。これは全く天主の聖寵と御助けの賜物であるに相違ない。彼女の生涯は実に「強き所を辱めんとて、天主世の弱き所を召し給う」(コリント1、1・27)という聖パウロの言葉を証するものである。